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福岡・博多の歴史〜奴国と金印〜 博多近辺は朝鮮半島や中国大陸に最も近いという地の利に恵まれ、稲作をはじめとする弥生文化がいち早く発展した地域です。縄文遺跡は比較的少ないですが、弥生文化の遺跡は豊富で、板付遺跡では縄文地層と一緒に水田跡が発見され、国内で最も早くから稲作が行われていた地区だとわかります。西区の吉武遺跡群では弥生時代の墳墓群が多くの鏡や青銅器、勾玉など、豪華な副葬品と一緒に見つかっただけでなく、弥生前期としては初めての、「高殿」と呼ばれる大型建物の跡が発見されました。 〜磐井の乱と那津官家〜 日本書紀によると、527(継体21)年、筑紫国造・磐井が任那に向かう大和朝廷軍を妨害したことをきっかけに大和朝廷との衝突が起こり、御井郡(みいのこおり)(現在の御井郡付近)の戦いで、大和朝廷軍が勝利をおさめ、乱は終結したとあります。この時に磐井は新羅の支援を受けていたという説もあります。その後、536(宣化元)年、大和朝廷は博多湾岸の那の津に大宰府の前身である那津官家を作りました。これは、後に築紫の官家(つくしのみやけ)、筑紫大宰(つくしのたいさい)などと呼ばれ、大宰府の前身でもあります。 〜防人と大宰府〜 6世紀中期に百済を経由して仏教が日本に入るなど、当時、日本は百済と大きな交流がありました。7世紀中盤の朝鮮半島では日本と同盟関係にあった百済が唐、新羅から攻め込まれて滅ぼされますが、それを復興するために斉明天皇や中大兄皇子など大和朝廷は百済救援出兵のため筑紫に到着します。 〜鴻臚館〜 この頃、筑紫館(つくしのむろつみ、つくしのたち)(後の鴻臚館)が現在の平和台球場跡付近に設置されました。鴻臚館(筑紫館)は、大宰府の外交施設として、外国使節をもてなす迎賓館・客館で、唐や新羅の使節、遣唐使や遣新羅使を接待、宿泊させました。鴻臚館は筑紫の他、摂津の難波(なにわ)と平安京に設置されてますが、筑紫は兵馬・甲冑(かっちゅう)を常備して軍事的機能も持っていました。遣唐使の停止後も貿易の窓口となり、長く古代日本の国際交流の拠点として機能しました。当初、筑紫館と呼ばれてましたが、平安時代には唐風に鴻臚館と呼ばれるようにななりました。これは中国で外国使節謁見の儀礼などを受け持っていた役所である「大鴻臚(だいこうろ)」や「鴻臚寺(こうろじ)」の名が由来してます。近年の発掘調査によって、南北二つの施設があることが確認され、大型の礎石建物跡やイスラム陶磁といった外国の陶磁器が大量に見つかってます。 〜遣唐使〜 当時は唐がアジアの中心であったので、唐の進んだ制度や文物の導入することを目的として遣唐使が派遣されるようになります。630(舒明2)年、犬上御田鍬らが第1回遣唐使として派遣された後、遣唐使は18〜20回任命されました。しかし、計画の中止などもあり、正式に派遣されたのは15回ほどです。船団は初期が2〜3船、のち4船に固定され、「四の船(よつのふね)」ともいわれました。一回に派遣された人数は250〜500人程度ですが、往復とも無事だったのは半数程度です。 〜博多商人と日宋貿易〜 平安中期には那珂川河口東岸に大宰府安楽寺の荘園である博多庄が成立しました。鴻臚館(こうろかん)での官貿易が衰えるとともに、宋商人がやってきて博多庄など有力な寺社や貴族と結びつき、積極的に貿易活動を行いました。博多には宋人居留区が形成され国際都市として、東アジア屈指の港市となりました。869年(貞観11)には新羅の海賊が、博多湾に侵入し豊前の国の年貢を奪います。1019年(寛仁3)には女真族が筑前等を侵す刀伊の入寇(といのにゅうこう)を受けますが、大宰府権帥(ごんのそつ)藤原隆家が撃退しました。
1274(文永11)年、元と高麗兵からなる4万の軍が朝鮮南端の合浦(がっぽ)から出発しました。元軍は百道原に上陸し、麁原(そはら)・鳥飼・別府・赤坂などで交戦し、博多を攻め、筥崎宮、博多の町を焼き払います。迎え撃つ九州の御家人ら日本軍は、元軍のもちいる集団戦法や火薬をつかった火器攻撃のため苦戦し、太宰府まで退却しましたが、元軍は日没のため一時、船へと引き返しました。しかし、その夜に大暴風雨が起こり、元の兵船200以上が転覆し、残る元軍は退却しました。これを文永の役と呼びます。 再度の蒙古軍の襲来防備のため、幕府は九州の大名に命じて、博多湾に沿いに、東は香椎、西は今津までの20Kmにわたり、石築地(いしついじ・元寇防塁)を築かせました。 フビライは日本征服をあきらめず、1279(弘安2)年に南宋を滅ぼすと、服属を勧告する使者を日本に送りますが、博多で首を斬られました。 1281(弘安4)年にフビライは日本遠征の命令をくだし、東路軍と江南軍と2隊に分けて出発させました。5月、モンゴル人・高麗人・漢人からなる東路軍約4万が朝鮮の合浦を出発し、対馬・壱岐をおそい6月6日に博多湾に攻め込み13日まで戦闘が行われます。日本軍の奮戦で東路軍は壱岐に退き、江南軍の到着を待ちました。江南軍10万は、予定より遅れて慶元(現:寧波・ニンポー)を出発し、7月に入って平戸付近で東路軍と合流します。元軍は再び博多湾を攻撃する予定でしたが7月末に肥前国鷹島で、夜半にふたたび大暴風雨が襲い、元軍は壊滅的な打撃をうけ退却しました。これを弘安の役と呼びます。そのころ、博多周辺における少弐氏の勢力が相対的に低下し、元寇の時に香椎浜の防御を担当した豊後の大友氏が次第に博多寄りに領地の拡大を図り、1330年に立花城を築きます。 その後も鎌倉幕府は元の第3次日本遠征に備えて警戒体制をゆるめず、異国警固番役を継続し、北条貞時の時代には、荘園の勢力を統率する目的で博多に鎮西探題がおかれました。 鎮西探題は九州の裁判と軍事も担当し、九州の御家人を元に対する警備に専念させるため、御家人が裁判のため鎌倉や京都に出かけることを禁止しました。鎮西探題はその後も鎌倉幕府の九州統治機関として続きましたが、1333年(元弘3)反鎌倉幕府勢力の御家人、大宰府長官少弐貞経、地元の有力守護大友貞宗・島津貞久らの襲撃を受けて、鎌倉幕府とともに滅亡しました。 〜日明貿易と大名による争奪戦〜 1336(延元元・建武3)年、足利尊氏は建武政権に京都を追われ、九州に敗走しましたが、九州の豪族である少弐頼尚・島津貞久・大友氏泰らを味方に引き入れて、九州南朝方の菊池武敏・阿蘇惟直らを多々良浜の戦いで破り、たった2ヵ月ほどで九州を平定、上洛の途につきました。 〜博多の復興と太閤町割り〜 秀吉は九州を平定した後、1587(天正15)年、筥崎(はこざき)で九州国分けを行い、九州各地の領主を決めます。筑前は小早川隆景が治めることとなり、名島城を築きます。秀吉は交易上の要地としての博多を復興させ、この時に行った太閤町割(たいこうまちわり)という都市計画によって現在の博多の原型が出来上がりました。博多祇園山笠の流れもこの太閤町割りがベースとなっています。 〜福岡、博多双子都市の誕生〜 関ヶ原の戦後、徳川家康は大名の配置替えをおこない、筑前に黒田氏を配しました。黒田氏は福崎の地に城を築いて福岡としましたが、名前の由来は黒田氏の出身地備前福岡にちなんでいます。 〜福岡市か博多市か〜
現在、地名として地図上に記載されているものに「博多区」という行政単位があります。博多区とは東西は那珂川から御笠川をわたり千代近辺まで、南は雑餉隈までの広い範囲を指しています。 平成10年4月に児童減少の影響を受けて博多区の北側に位置する大浜・御供所・奈良屋・冷泉の旧4小学校が統合され博多小となりましたが、ここではこの旧4校区を指して「博多部」と言うことにします。
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