トップページ
ニュース
灯明ウォッチングとは
灯明ギャラリー
灯明の作り方
投稿写真
スタッフ募集

博多観光案内
博多の祭り
博多の歴史

壁 紙
スクリーンセーバー
掲示板
ご意見をお聞かせ下さい
英語版

福岡・博多の歴史

〜奴国と金印〜

 博多近辺は朝鮮半島や中国大陸に最も近いという地の利に恵まれ、稲作をはじめとする弥生文化がいち早く発展した地域です。縄文遺跡は比較的少ないですが、弥生文化の遺跡は豊富で、板付遺跡では縄文地層と一緒に水田跡が発見され、国内で最も早くから稲作が行われていた地区だとわかります。西区の吉武遺跡群では弥生時代の墳墓群が多くの鏡や青銅器、勾玉など、豪華な副葬品と一緒に見つかっただけでなく、弥生前期としては初めての、「高殿」と呼ばれる大型建物の跡が発見されました。
 紀元前108年、前漢が、現在の平壌付近に楽浪郡を設置すると、前漢の東アジアの窓口となり、日本も大陸との交流が盛んになりました。「魏志倭人伝」に記されている奴(な)という古代国家は福岡市にあったのではないかと言われ、「後漢書」には西暦57年、時の皇帝・光武帝が奴国(なのくに)の使者に金印を授けたと記されています。当時の漢は金印を相当の実力者しか授けておらず、奴国は倭国の中でも実力を認められていたことがわかります。そして238年には邪馬台国の女王卑弥呼が魏の明帝(めいてい)から「親魏倭王」の金印を与えられてます。

〜磐井の乱と那津官家〜

 日本書紀によると、527(継体21)年、筑紫国造・磐井が任那に向かう大和朝廷軍を妨害したことをきっかけに大和朝廷との衝突が起こり、御井郡(みいのこおり)(現在の御井郡付近)の戦いで、大和朝廷軍が勝利をおさめ、乱は終結したとあります。この時に磐井は新羅の支援を受けていたという説もあります。その後、536(宣化元)年、大和朝廷は博多湾岸の那の津に大宰府の前身である那津官家を作りました。これは、後に築紫の官家(つくしのみやけ)、筑紫大宰(つくしのたいさい)などと呼ばれ、大宰府の前身でもあります。
 大宰府は特別な地方官庁で、九州全体の統轄と外交・軍事を担当し、「遠の朝廷(とおのみかど)」とも呼ばれました。「日本書紀」によると、609(推古17)年、常駐官として筑紫大宰(つくしのおおみこともち)がみえ、中国の隋や朝鮮との外交折衝にあたっていたとあり、「大宰」の名が初めて現れます。

〜防人と大宰府〜

 6世紀中期に百済を経由して仏教が日本に入るなど、当時、日本は百済と大きな交流がありました。7世紀中盤の朝鮮半島では日本と同盟関係にあった百済が唐、新羅から攻め込まれて滅ぼされますが、それを復興するために斉明天皇や中大兄皇子など大和朝廷は百済救援出兵のため筑紫に到着します。
  663(斉明7)年、中大兄皇子は百済に2万7千人の兵を3隊に分け、博多湾から朝鮮半島へ送りますが、白村江の戦で唐、新羅軍に破れます。このことで唐・新羅の日本への報復的な攻撃が予想されたため、那津官家を防御のために内陸(現在の太宰府市)に移転し、その周囲に防衛施設をめぐらせました。大野城、基肄(きい)城をつくり、さらに大野城がある四王寺山から西の脊振山地の間のせまい平坦地は、博多から大宰府への通り道にあたるために、水城を築きました。そして、その兵力として東日本から集められた辺境防備兵である防人がおかれました。

〜鴻臚館〜

 この頃、筑紫館(つくしのむろつみ、つくしのたち)(後の鴻臚館)が現在の平和台球場跡付近に設置されました。鴻臚館(筑紫館)は、大宰府の外交施設として、外国使節をもてなす迎賓館・客館で、唐や新羅の使節、遣唐使や遣新羅使を接待、宿泊させました。鴻臚館は筑紫の他、摂津の難波(なにわ)と平安京に設置されてますが、筑紫は兵馬・甲冑(かっちゅう)を常備して軍事的機能も持っていました。遣唐使の停止後も貿易の窓口となり、長く古代日本の国際交流の拠点として機能しました。当初、筑紫館と呼ばれてましたが、平安時代には唐風に鴻臚館と呼ばれるようにななりました。これは中国で外国使節謁見の儀礼などを受け持っていた役所である「大鴻臚(だいこうろ)」や「鴻臚寺(こうろじ)」の名が由来してます。近年の発掘調査によって、南北二つの施設があることが確認され、大型の礎石建物跡やイスラム陶磁といった外国の陶磁器が大量に見つかってます。
  「博多」という地名が記録にあらわれるのは759(天平宝字3)年、「続日本紀」の太宰府の報告に「異国の侵攻に備えて博多大津の警固を厳重にしなければならぬ」とあるのが初見とされていています。語源に関しては、いろいろな俗説がありますが、妥当とされている説として「海域、土地博く人、物産が多し」で「博多」と呼ばれるようになったと言われています。

〜遣唐使〜

 当時は唐がアジアの中心であったので、唐の進んだ制度や文物の導入することを目的として遣唐使が派遣されるようになります。630(舒明2)年、犬上御田鍬らが第1回遣唐使として派遣された後、遣唐使は18〜20回任命されました。しかし、計画の中止などもあり、正式に派遣されたのは15回ほどです。船団は初期が2〜3船、のち4船に固定され、「四の船(よつのふね)」ともいわれました。一回に派遣された人数は250〜500人程度ですが、往復とも無事だったのは半数程度です。
 遣唐使のエピソードとしては753年(天平勝宝5)、唐の正月の朝賀の儀式で、白村江の戦以来、関係が悪化していた新羅と席次争い、遣唐使の大伴古麻呂が新羅の上位になるよう玄宗皇帝に抗議し、席次を新羅の上に改めさせましたという話も残っています。
 804(延暦23)年の第11回遣唐使では、最澄と空海が遣唐使と共に唐に渡り、806(大同元)年空海が唐より帰朝し、博多に真言宗の東長寺を開きました。また、鴻臚館の名前は837(承和4)年の遣唐使の記事に初めて現れてます。その後、894年(寛平6)遣唐使となった菅原道真の進言により、唐の衰退と航海の危険を理由に遣唐使は廃止されました。901(延喜元)年、右大臣菅原道真が大宰府に左遷され、903(延喜3)に亡くなると弟子味酒安行(うまさけのやすゆき)の手により、905(延喜5)に祠廟が建立されました。これが太宰府天満宮の始まりとされています。

〜博多商人と日宋貿易〜

 平安中期には那珂川河口東岸に大宰府安楽寺の荘園である博多庄が成立しました。鴻臚館(こうろかん)での官貿易が衰えるとともに、宋商人がやってきて博多庄など有力な寺社や貴族と結びつき、積極的に貿易活動を行いました。博多には宋人居留区が形成され国際都市として、東アジア屈指の港市となりました。869年(貞観11)には新羅の海賊が、博多湾に侵入し豊前の国の年貢を奪います。1019年(寛仁3)には女真族が筑前等を侵す刀伊の入寇(といのにゅうこう)を受けますが、大宰府権帥(ごんのそつ)藤原隆家が撃退しました。
 平安末期には平清盛が博多に日宋貿易のための日本初の人工の港である袖湊(そでのみなと)を築いたといわれています。
  鎌倉時代に入ると商人とともに僧が多くのものを持ち帰ります。栄西は禅を宋から持ち帰り、日本最初の禅寺聖福寺を博多に建立(1195)するとともに、茶の種を飲み方と一緒に持ち帰り、聖福寺にお茶の木を植えました。聖福寺には大きな茶園があったと言われ、宋人貿易商がお茶を愛飲していたこともあり、薬用として浸透していきました。栄西は茶祖といわれ、聖福寺は我が国でのお茶の発祥の地と呼ばれるようになります。遺跡からは中国製の茶碗なども出土しています。
  宋からの帰化人、謝国明(しゃこくめい)が承天寺を建設し、聖一国師が開山しますが、当時、博多に流行していた疫病を退治するため、聖一国師が施餓鬼棚に乗り甘露水をふりまいたことが博多祇園山笠の起源ともいわれています。「饅頭」に関しても、聖一国師が1241年宋の留学から帰国した際に作り方を茶店の主人に教えたことから始まったと言われています。「うどん・そば」に関しても同様で、承天寺には発祥の記念碑があります。


〜元寇〜

鎌倉時代の博多
13世紀前半、モンゴルはアジアからヨーロッパにまたがる大帝国を築きました。モンゴル帝国5代皇帝フビライは、中国の南宋や朝鮮の高麗をほぼ制圧すると、日本も支配下におこうと計画し、1268(文永5)年以降たびたび日本に使者をおくり、服属を迫りました。鎌倉幕府の執権であった北条時宗はこれを拒絶し、九州方面に所領をもつ御家人を帰国させ、北九州の防衛を堅めました。
  1274(文永11)年、元と高麗兵からなる4万の軍が朝鮮南端の合浦(がっぽ)から出発しました。元軍は百道原に上陸し、麁原(そはら)・鳥飼・別府・赤坂などで交戦し、博多を攻め、筥崎宮、博多の町を焼き払います。迎え撃つ九州の御家人ら日本軍は、元軍のもちいる集団戦法や火薬をつかった火器攻撃のため苦戦し、太宰府まで退却しましたが、元軍は日没のため一時、船へと引き返しました。しかし、その夜に大暴風雨が起こり、元の兵船200以上が転覆し、残る元軍は退却しました。これを文永の役と呼びます。
 再度の蒙古軍の襲来防備のため、幕府は九州の大名に命じて、博多湾に沿いに、東は香椎、西は今津までの20Kmにわたり、石築地(いしついじ・元寇防塁)を築かせました。
 フビライは日本征服をあきらめず、1279(弘安2)年に南宋を滅ぼすと、服属を勧告する使者を日本に送りますが、博多で首を斬られました。
 1281(弘安4)年にフビライは日本遠征の命令をくだし、東路軍と江南軍と2隊に分けて出発させました。5月、モンゴル人・高麗人・漢人からなる東路軍約4万が朝鮮の合浦を出発し、対馬・壱岐をおそい6月6日に博多湾に攻め込み13日まで戦闘が行われます。日本軍の奮戦で東路軍は壱岐に退き、江南軍の到着を待ちました。江南軍10万は、予定より遅れて慶元(現:寧波・ニンポー)を出発し、7月に入って平戸付近で東路軍と合流します。元軍は再び博多湾を攻撃する予定でしたが7月末に肥前国鷹島で、夜半にふたたび大暴風雨が襲い、元軍は壊滅的な打撃をうけ退却しました。これを弘安の役と呼びます。そのころ、博多周辺における少弐氏の勢力が相対的に低下し、元寇の時に香椎浜の防御を担当した豊後の大友氏が次第に博多寄りに領地の拡大を図り、1330年に立花城を築きます。
 その後も鎌倉幕府は元の第3次日本遠征に備えて警戒体制をゆるめず、異国警固番役を継続し、北条貞時の時代には、荘園の勢力を統率する目的で博多に鎮西探題がおかれました。 鎮西探題は九州の裁判と軍事も担当し、九州の御家人を元に対する警備に専念させるため、御家人が裁判のため鎌倉や京都に出かけることを禁止しました。鎮西探題はその後も鎌倉幕府の九州統治機関として続きましたが、1333年(元弘3)反鎌倉幕府勢力の御家人、大宰府長官少弐貞経、地元の有力守護大友貞宗・島津貞久らの襲撃を受けて、鎌倉幕府とともに滅亡しました。

〜日明貿易と大名による争奪戦〜

 1336(延元元・建武3)年、足利尊氏は建武政権に京都を追われ、九州に敗走しましたが、九州の豪族である少弐頼尚・島津貞久・大友氏泰らを味方に引き入れて、九州南朝方の菊池武敏・阿蘇惟直らを多々良浜の戦いで破り、たった2ヵ月ほどで九州を平定、上洛の途につきました。
 南北朝時代の室町幕府は鎌倉幕府の鎮西探題に習い九州探題を設置しました。
1371年、幕府方の新九州探題今川了俊(いまがわりょうしゅん )の大軍が九州に上陸、太宰府にいた南朝方の菊池軍を攻撃し、菊池氏は本拠の肥後まで退却しました。
しかし今川了俊は、その後、九州探題の権力を強化するため、幕府方の少弐冬資を謀殺してしまうので、大友氏や島津氏は反目するようになります。軍勢を失った今川は、幕府にたいして周防の大内義弘の援助を依頼します。そのことがきっかけで大内氏が博多に進出するようになります。
 再び勢力を強めた今川了俊が九州の広い範囲に領国支配を及ぼそうとしたため、その勢力拡大を危惧した足利義満は1395(応永2)年了俊を解任します。
 博多は周防(山口県)の大内氏、豊後(大分県)の大友氏、それに大宰府の少弐氏、肥後の菊池氏などが争うようになりますが、よそ者の大内氏に対して、大友、少弐、菊池三氏は同盟を結びます。
 1401(応永8)年には、博多商人の肥富(こいずみ)が、将軍足利義満の命で鎖国中の明に貿易開始の交渉し、明との勘合貿易が始まります。 しかし、1411(応永18)年、足利義持が日本と明との朝貢形式の貿易が屈辱的であると明との国交を断絶、勘合貿易も休止となります。そこで、大友氏は、朝鮮と貿易をしようと1429(永享元)年に朝鮮に使いを送り、博多を支配していることを告げます。そして、宗金をはじめ、多くの商人が大友氏の保護のもとで朝鮮と貿易を行いました。1432(永亨4)年、足利義教により、再び勘合貿易が再開されます。
 1445年大内氏が筑前に攻め入ると大友氏は豊後に逃れ、少弐氏は肥前に退きます。その後大内氏の筑前支配が続きますが1467年より始まる応任の乱で、大内氏は九州から引き上げてしまいます。それを見た大友氏と少弐氏は再び博多を支配します。
 当時、博多は、人口約1万戸と言われ、現在の呉服町交差点を境に、博多湾に面した「息浜」6000余戸を大友氏が治めました。対する少弐氏は、西南側の聖福寺や承天寺周辺の内陸部、4000戸余を支配しましたが、応任の乱が収まると、1478(文明10)年、再び大内氏が上陸し、大内政弘は少弐氏を追放しました。その後、大内、大友両氏による支配が1551年の大内義隆自害まで続きます。
 再開された勘合貿易による日明貿易では大内氏の保護を受けた博多の商人と細川氏の保護を受けた堺の商人が競うようになります。1523(嘉靖2)年に、寧波の乱が起こります。明の港町寧波(ニンポー)で細川方が監督官に賄賂を送り優遇させたことをきっかけに大内側が細川側を襲撃しました。その後、勘合貿易は大内氏が独占するようになりました。
 大内氏滅亡の頃から大友宗麟は、筑前・豊前を平定します。さらに筑後、肥後の菊池氏まで滅ぼして、1560年には九州探題職に任命され、九州六ケ国の守護になります。また、陶晴腎を滅ぼした毛利元就ともうまく和睦します。しかし、横暴な振る舞いも多く見られ、家臣、立花鑑載が反乱を起こします。これを好機ととらえた毛利氏が、立花鑑載を懐柔し、博多で大友氏と戦い、博多は市街地の大半を焼失しました。
 その後、龍造寺氏、島津氏、大友氏などの争いにより、博多は度々、戦火に巻き込まれます。島津が博多を占領すると大友氏は秀吉に援軍を求め、島津は博多を焼き払って退却し、秀吉に降伏します。

〜博多の復興と太閤町割り〜

 秀吉は九州を平定した後、1587(天正15)年、筥崎(はこざき)で九州国分けを行い、九州各地の領主を決めます。筑前は小早川隆景が治めることとなり、名島城を築きます。秀吉は交易上の要地としての博多を復興させ、この時に行った太閤町割(たいこうまちわり)という都市計画によって現在の博多の原型が出来上がりました。博多祇園山笠の流れもこの太閤町割りがベースとなっています。
 戦乱で荒れた博多を復興する際に、焼け石や焼け瓦など、まさにがれきを使った土塀が築かれました。これが「博多塀」で、今日でいうリサイクルの始まりです。今でも櫛田神社などで見ることが出来ます。
 博多の復興には、秀吉と親交のあった豪商の嶋井宗室が命じられました。宗室とともに紙屋宗湛の活躍により、博多は再びよみがえりました。秀吉は博多に「定」を出し、町人が博多に早く戻れるように、地租や賦役を免除し、楽市楽座の制度をしいて商工の振興を図るとともに、武士の居住を認めず、町人に自治を守ることとしました。自治都市博多の精神は今日の博多部にも脈々と受け継がれています。

〜福岡、博多双子都市の誕生〜

 関ヶ原の戦後、徳川家康は大名の配置替えをおこない、筑前に黒田氏を配しました。黒田氏は福崎の地に城を築いて福岡としましたが、名前の由来は黒田氏の出身地備前福岡にちなんでいます。
 「博多」という言葉は、関ヶ原の戦のあと黒田氏が筑前に入ってくるまでは、博多湾の南岸に東西に広がる一体を指したものでしたが、黒田氏が福岡城を築いて城下町を「福岡」と称したことで「博多」という地名は那珂川の東側を指すようになりました。 西の城下町福岡と東の商人町の博多とで機能を分担した双子都市としとなります。貿易で栄えた博多でしたが江戸幕府鎖国政策をとると博多では商人の活躍の場は閉ざされ、商人は長崎や九州の他の大名が築いた城下町にその活躍の場を求めるようになります。江戸初期には九州一の大都会でしたが、長い鎖国の時代を過ぎ、幕末には、九州の他の都市と比べ相対的に衰えてきます。

〜福岡市か博多市か〜

現代の博多の航空写真
博  多  部
1889(明治22)年、江戸期以降別れていた城下町の福岡と商業・港湾都市の博多が再び一つになり市制をしくことになりますが、「福岡市」か「博多市」にするかで市民の間で激しく争われていました。そのような中、福岡県は県令第四十二号で市名を「福岡市」と決定し、福岡市が誕生します。しかし、これでは博多の地元の人はおさまらず、翌年、「博多市」への市名変更の建議を市会(現在の市議会)に図りますが、議員票が同数であったため、議長票の1票差で否決され博多市の誕生は幻に消え当時の国鉄の駅が「博多駅」となることで政治的な決着がなされたたという歴史があります。ちなみに、「福岡駅」とは天神にある西鉄福岡駅のことを指し、「博多駅」とは別の駅です。
 現在、地名として地図上に記載されているものに「博多区」という行政単位があります。博多区とは東西は那珂川から御笠川をわたり千代近辺まで、南は雑餉隈までの広い範囲を指しています。
 平成10年4月に児童減少の影響を受けて博多区の北側に位置する大浜・御供所・奈良屋・冷泉の旧4小学校が統合され博多小となりましたが、ここではこの旧4校区を指して「博多部」と言うことにします。



博多(福岡)の歴史年表

 

旧石器時代
後   期
B.C30000-40000
諸岡遺跡
縄文時代
草 創 期
B.C10000
大原遺跡
弥生時代
早   期
B.C450
  板付遺跡(稲作農業がはじまる)
吉武高木遺跡
弥生時代
中   期
 
 
今山遺跡・比恵遺跡
弥生時代
後   期
57
 
奴の国王が後漢に朝貢して光武帝から「漢委奴国王」の金印を受ける
238
 
邪馬台国の女王卑弥呼が魏の明帝(めいてい)から「親魏倭王」の金印紫綬を受ける
古墳時代
527
 継体21
磐井の乱。筑紫国造(くにみやっこ)磐井が大和朝廷に対し反乱を起こす。
536
宣化元
那の津(福岡市博多区比恵?南区三宅?付近)に官家(みやけ)をつくる。(那津宮家:大宰府の前身とされる)。後に築紫の官家(つくしのみやけ)、筑紫大宰(つくしのたいさい)などと呼ばれた。 諸国の屯倉(みやけ)に穀を運び、非常に備えた。
609
推古17
「太宰」という名前がが『筑紫大宰』の名で初めて日本書紀に現れる
621 推古29 新羅の使者が初めて来貢し、筑紫に立ち寄る。
630 舒明2
最初の遣唐使(犬上御田鍬)が、那の津に泊まる。
661
斉明7
斉明天皇、中大兄皇子とともに百済救援出兵のため筑紫に到着。(百済からの援軍の要請を受け唐、新羅と戦うため)
飛鳥時代
663
天智2
倭国、白村江(はくすきのえ)にて、唐、新羅に大敗し百済滅亡
664
天智3
唐、新羅からの守りとして筑紫に防人(さきもり)をおき水城を築く
このころ那津官家を防御のため移転して、大宰府できる
665
天智4
大野城、基肄城(きいじょう)を築く
筑紫館(つくしのむろつみ、つくしのたち)(後の鴻臚館)を設置する。
698
文武
筑前国の名、初めて現れる
奈良時代
728
神亀5
大伴旅人が大宰師に任ぜられる(万葉集)
757
天平宝字元
櫛田神社創建と伝えられる
759
天平宝字3
「博多」という名前が『博多大津』の名で初めて続日本紀(しょくにほんき)に現れる
平安時代
804
延暦23
最澄、空海が遣唐使と共に唐に渡る。(第11回遣唐使)
806
大同元
空海が唐より帰朝し、真言宗の東長寺を開く。 
837
承和4
遣唐大使の記事に鴻臚館の名前初めて現れる
869
貞観11
新羅海賊が博多湾に侵入。豊前国の年貢の絹綿を奪う。
894
寛平6
菅原道真により遣唐使を廃止する。
901
延喜元
右大臣菅原道真が大宰府に左遷される
905 延喜5

味酒安行(うまざけやすゆき)が菅原道真の墓の上に社殿を建立する。(太宰府天満宮の由来)

919
延喜19
生きものの供養をする箱崎放生会が始まる
923
延長1
筥崎八幡宮創建。穂波郡大分宮から移築された。
941
天慶4
藤原純友が大宰府を攻め放火する。小野好古(おののよしふる)らが博多湾でこれを破って、藤原純友は退散する。
1019 寛仁3
刀伊の入寇。女真族が筑前等を侵すが、大宰府権帥(ごんのそつ)藤原隆家が撃退。
1161
応保元
平清盛が日本初の人工の港「袖の湊」をつくる
1179
治承3
博多どんたくの起源でもある博多松囃子始まると伝えられる
鎌倉時代
1195
建久9
栄西が我が国初の禅寺である聖福寺が開かれる。また茶の種を宋より持ち帰り聖福寺境内などに植え、ここから全国に広まった。
1222 貞応元 博多湾に人魚が現れると言い伝えられる。冷泉中納言が調査し龍宮寺に葬る。冷泉の町名の由来。
1240 仁治元 湛慧が大宰府横岳に崇福寺を創建する。
1241
仁治2
博多山笠始まると伝えられる。聖一国師が疫病のため、施餓鬼棚に乗り甘露水をふりまいた。
1242
仁治3
宋からの帰化人、謝国明(しゃこくめい)が承天寺を建設し、聖一国師が開山する
1274
文永11
蒙古襲来。(文永の役)元軍4万。博多を攻め筥崎宮、博多の町を焼きはらう。日本軍は太宰府まで退却したが、元軍引き返す。
1276
建治2
幕府が九州の諸候に命じて石築地(防塁)を博多湾に築く(元寇防塁)
1281
弘安4
蒙古襲来。(弘安の役)元、高麗、江南軍14万、再び博多を攻める。数ヶ月の戦いの後、疾病、台風などで元軍が敗退。
1282
弘安5
北条時定、姪浜に鎮西探題を定める
1330 元徳2 大友貞載により立花城築城
室町時代
1333
元弘3
菊池武時義兵を挙げ少武、大友氏と共に鎮西探題北条英時を攻め亡す
1336
延元元
足利尊氏が菊池武敏と多々良川口で戦いこれを破る。
1401 応永8 博多商人の肥富が、将軍足利義満の命で鎖国中の明に貿易開始の交渉する。
1404 応永11 明との貿易(勘合貿易)が始まる。
1411 応永18 足利義持が朝貢形式が屈辱的であると明との国交を断絶、勘合貿易も休止となる。
1425 応永32 博多商人の宗金が、李氏朝鮮から正式貿易許可の証として「図書(としょ)」を受ける。
1432 永亨4 足利義教により、勘合貿易が再開
戦国時代
1550
天文19
フランシスコ・ザビエル博多に来る
1569
永禄,12
毛利、大友の両軍が博多で戦い、市街地の大半が焼失する
1570 元亀元 戸次鑑載が立花城に入城し、立花道雪と名乗る。
安土桃山
時  代
1587
天正15
太閤町割り。豊臣秀吉が町割りを定め博多を再興する。また筥崎宮でキリスト教禁止令を出す。
秀吉は箱崎で九州国分け(領主の配置決定)を行い 、小早川隆景が筑前領主となり、名島城を改築し城主となる。
1588
天正16
豊臣秀吉が箱崎で茶会を開く。
1600
慶長5
黒田如水、長政の父子筑前に入国し翌年より福岡城の道営に着手
崇福寺が黒田長政により現在地(千代)に移転し、黒田家の菩提寺となる。
江戸時代
1632
寛永9
黒田騒動起こる。黒田忠之は不行跡が多いので家老から幕府に謀反の企てありと訴えられる。 謀反の疑いはとけたが、徳川家光より藩内取締まりが悪いと罰せられる。
1687
貞享4
博多祇園山笠の「追い山」の起源。山が別の山を追い抜いたことから、各流れが競争を始める。
1709
宝永6
貝原益軒が筑前国続風土記を完成させる。
1733
享保18
享保(きょうほう)の疫病流行飢謹も重なり死者多数。博多では当時の人口の3分の1にあたる6千人が死亡する。
1756
宝暦6
流灌頂始まる
1784
天明4
志賀島百姓甚兵衛が金印を掘り出す
福岡藩校、東西両学問所がつくられる(修猷館高校の前身)
1864 元治元 高杉晋作、野村望東尼の平尾山荘にかくまわれる。
1865
慶応元
三条実美等太宰府に来る。
福岡藩の尊攘派弾圧に際し、野村望東尼、姫島へ流れる。
明治時代
1871
明治4
廃藩置県
1872
明治5
福岡藩は福岡県となる。知事有栖川宮熾仁親王(ありすかわのみやたるひとしんのう)
1873
明治6
筑前竹槍一揆おこる
1889
明治22
福岡市市制施行
博多駅が完成。九州初の鉄道が博多〜久留米(千歳川)で開業
1899
明治32
博多港開港に指定される
1903
明治36
京都帝国大学福岡医科大学(後の九州大学)開設。熊本、長崎と激しい誘致合戦をくりひろげる
1910
明治43
九州で初めての市内電車の福博電車が医大前−西公園間、呉服町−博多駅間で開通。
1911
明治44
渡辺与八郎が、博多駅と海岸をつなぐ博多電気軌道を開通させる。渡辺通りの名は彼の功績に由来する。
大正時代
1921
大正10
福岡女学院が日本初のセーラー服を作って制服とする。その後全国に伝わる。
1923
大正12
曲淵ダムが完成し、上水道が通水する
1924
大正13
九州鉄道(現西鉄大牟田線)の、福岡−久留米間が開通する。(所要時間55分) 
1925
大正14
玉屋百貨店が市内最初のデパートとして開店する。
昭和時代
1930
昭和5
福岡放送局(現NHK福岡)が開局する
1933
昭和8
福岡市の人口が九州で一位になる(276,458人)
1936
昭和11
岩田屋百貨店が開店する。
1945
昭和20
6月19日福岡大空襲。12,000戸が焼け、千数百人が死亡。
1948
昭和23
第3回国民体育大会を平和台で開催
1951
昭和26
西鉄ライオンズ誕生
板付飛行場で、民間航空が再開される
1953
昭和28
大丸百貨店が開店する
市立動物園(南公園)が開園する
1956
昭和31
NHK福岡が九州発のテレビ放送開始
西鉄ライオンズが日本一。以後1958年まで3年連続日本シリーズ優勝
1957
昭和32
大相撲九州場所が本場所になり、四場所制から五場所制になる
1958
昭和33
ラジオ九州テレビ局(現RKB毎日)が開局する。テレビ西日本が開局する。
1959
昭和34
KBC九州朝日放送テレビが開局する。
1960
昭和35
福岡市がオークランド市と姉妹都市を提携する。
1961
昭和36
福岡市マスタープランスタート
1963
昭和38
博多駅が現在地に移転
1966
昭和41
朝日国際マラソンが福岡国際マラソン選手権大会となる。
1969
昭和44
聖福寺境内が国史跡指定される
油山市民の森が開設される。
FBS福岡放送が開局する。
FM福岡が放送開始する。
1972
昭和47
福岡市政令指定都市となり中央区、博多区、東区、南区、西区が誕生
1975
昭和50
山陽新幹線が博多まで開通。東京まで6時間56分
1976
昭和51
天神地下街がオープン
1978
昭和53
90年ぶりの異常少雨。給水制限延べ287日
1979
昭和54
市内電車を廃止
福岡広州友好都市締結
市美術館が大濠公園にオープン
博多祇園山笠が国の無形民俗文化財に指定
1981
昭和56
福岡市営地下鉄部分開通(室見〜天神間)
福岡県新庁舎落成
福岡国際センターが完成
1982
昭和57
福岡'82大博覧会開催
福岡市がフランスボルドー市と姉妹都市締結する
旧西区が3区に分かれる(西区、城南区、早良区)
「博多よろう会」設立「このままじゃ博多がのうなる」という老人のつぶやきから、博多部まちづくりが始まる
1983
昭和58
地下鉄1号線姪浜〜博多間開通
1986
昭和61
福岡市がニュージーランドオークランド市と姉妹都市締結する
1987
昭和62
鴻臚館の遺構を発見
太閤町割400年祭が開催
平成時代
1989
平成元
福岡市制100周年を迎える。
福岡市でアジア太平洋博覧会「よかトピア」が開催される。
1990
平成2
とびうめ国体開催
1991
平成3
「博多部共同研究体」設立「立場を超えた博多部のまちづくり応援団『博多部共同研究体』が設立される。」
1991
平成4
大浜自治連合会に、地域と行政から認知を得た「まちづくり協議会」が設立される。
1993
平成5
皇太子殿下ご成婚
地下鉄1号線博多〜福岡空港間が開業
1994
平成6
博多湾人工島が着工される
第1回博多灯明ウォッチングが開催
「博多まちづくり学校」を開催(博多部共同研究体の事業の一つとして、第1回「博多まちづくり学校」が開催される。)
「博多部まちづくり協議会」設立( 博多部四地区の協議会設立と、その連合体である「博多部まちづくり協議会」が設立される。)
1995
平成7
シーホークホテル&リゾート開業
ユニバーシアード福岡大会開催
マリンメッセ福岡が開館
博多町家ふるさと館が開館
1996
平成8
キャナルシティ博多開業
岩田屋Zサイド開業
「博多灯明ウォッチング」が福岡市都市景観賞を受賞
1997
平成9
ADB(アジア開発銀行)総会開催
福岡三越、エルガーラ開業
「都心居住・博多部振興検討会」が設置 (福岡市と博多部の協働まちづくりを目指し、「都心居住・博多部振興検討会」が設置される)
「博多部まちづくり憲章」制定(「博多部まちづくり憲章」が、櫛田神社にて発表・制定される)
1998
平成10
山崎広太郎氏、福岡市長に
スカイマークエアラインズ就航
「都心居住・博多部振興プラン」作成 (福岡市に「都心居住・博多部振興室」ができ、「振興プラン」が政策決定される。)
奈良屋、冷泉、大浜、御供所の4小学校が統合し、博多小学校へ
1999
平成11
博多リバレイン開業、福岡アジア美術館開館、博多座会場
福岡ダイエーホークス、初の日本一
2000
平成12
「九州沖縄サミット」福岡蔵相会合
プロ野球福岡ダイエーが2年連続のリーグ優勝
2001
平成13
第9回世界水泳選手権大会福岡2001開催
中世博多展が開幕
博多部の四小学校が統合した博多小が新校舎に
「エバーグリーンマリノア」で、東洋一の高さ(120メートル)を誇る大観覧車が営業開始
NPO法人「NPO博多まちづくり」設立
2002
平成14

九州国立博物館(仮称)が福岡県太宰府市に着工
西日本銀行と福岡シティ銀行が合併に合意
岩田屋が伊勢丹傘下へ
ミュージックシティ天神が初開催
「ロボカップ」福岡市で開幕

2003
平成15
社会実験を開催